「この世界にお前のものは一つもない。」
私がよく息子に言う言葉です。
一見、冷たく意地悪な言葉に思えますが、違います。
例えば、「お米」
皆さん、ほぼ毎日口にしているものだと思います。
「お米」は生きていますよね。生きているということは「いのち」があるということです。
ではこのお米のいのちは「だれのもの」でしょう?
自分で買ったお米だから自分のものだと思うかもしれません。
しかし違います。
お米のいのちはお米のものだと言うかもしれません。
これも違います。
では、いったい誰のものなのでしょう?
これは「ほとけ」さまのものなのです。
我々はお金を払うとなんでも買えると思いこんでいますが、それは錯覚です。
所有権は常に「ほとけ」さまにあるのです。
お米だけではありません。すべての生きとし生けるものや物質、ましてや我々のいのちでさえ、全てが「ほとけ」さまのものです。
じゃあ「ほとけ」ていったいなんなの?
かんたんに言いますと「宇宙」もしくは「大自然」のことです。
我々はこの「宇宙」や「大自然」の中で生きてます。正確に言うと「生かされています。」
もっと正確に言うと「私たちは宇宙の一部」です。
ですから、我々人間が見ているもの、聞こえているもの、触れるもの、全てが「ほとけ:宇宙」なのです。
そう、我々人間も「ほとけ」さまのものです。
「ほとけの子」なのです。
これが仏教の基本的な世界観です。
人間はとにかく何でも欲しがります。
前から欲しかった、とてつもなく大きなダイヤモンドを手に入れたとしても、またそれ以上の大きさの
ダイヤモンドを欲しがります。
車にしろ、家にしろ、なんでも「もっと、もっと」と欲しがります。
皆さん気づきませんか?
これが苦しみの始まりなのだと。
これが苦しみの原因なのだと。
欲しい、手に入れたい。
けど、手に入らない。
そしてイラだち苦しむ。
手に入れたとしても、その大事なものが盗まれないか、壊れないか、と不安になってまた苦しむ。
そして、また欲しがる。
またまたまたまたまたまたまたまたmmmm・・・・
まさに、苦しみが循環して次から次へとやってくるのです。
「欲しがること」これが苦しみの原因です。
「自分のもの」だと思い込むこと、これも苦しみの原因です。
ですからは、私は息子に苦しんでほしくないから「この世界に何一つもお前のものなどない」と言うのです。
すべて、ほとけさまのものであって、それらを私たちはお借りしているだけだと解れば「欲しがる」ことがなくなり、何も苦しまずにすむのです。
息子も「おもちゃを取られた。」と泣く必要もなくないのです。
そのおもちゃもほとけさまのものですから、みんなで仲良く使えばいいのです。
皆さんは、今、目の前にあるものを自分のものだと思い込んでいませんか?
本来無一物:ほんらいむいちぶつ
「この世界に、あなたのものは何一つありません。」
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